多くの方がこの詩をお読みになったことがあるかと思います。これは米国のアリゾナ州で暮らしていたネイティヴ・アメリカンの女性詩人、
ナンシー・ウッドさんが1974年に
出版されたものです。
彼女が生きていた時代、人は部族、一族、家族と共に暮らし、年老いた時には自分ができることは自分でし、できないことは周りの人々の助けを受け、世話をしてもらいながら生きていたと聞きます。それは当時、地球上に生きていた多くの人々の生活の仕方だったことでしょう。
しかし今、私たちと大地や宇宙、他者との接触や関わりはひどく希薄になり、人は孤独の中で生き、孤独の中で老い、孤独の中で死んでいく人が増えてきています。
大地と固い絆を持ちながら太古に生きた先人の多くの魂は、太陽が昇り、風が吹き、火を焚く煙が流れ、赤ん坊が泣き、共に生きてきた人々に囲まれながら、「死ぬのにもってこいの日」に天に昇って行ったことでしょう。
しかし現在の私たちの死に様(よう)はどうでしょうか。それまで暮らしていた家で家族や親族、友人たちに見送られて旅立つ人もいます。ある人は病院で、ある人は高齢者ホームで、また家で、路上で、誰にも看取られず死んでいく人もいます。
この違いは、人間が進化した故に起きつつあることのひとつの例です。一人で闘うことによって獣に喰われて死んでしまった人、大勢の仲間の知恵を集めれば助かったかもしれない大嵐の中で一人で死んでいった人、また、多くの仲間と共に戦えば肥沃な土地を白人に奪われずにすんだ人もどれほどいたことでしょう。
しかし、彼らは狩をするのも仲間と共に、農作業も仲間と助け合いながら、家を建てるのも共同で作業し、祝い事も、喜びも、辛さも悲しみも全てを仲間で共有しながら暮らしていました。
今、私たちは一人で暮らせる安全な家を持っています。冷蔵庫には1週間かけても一人で食べきれない程の食料が入っています。また、一人で音楽を聴く楽しさも、一人で思索する醍醐味も味わうことができます。
一族の人々と共に歌い踊ることが楽しみ、共に魚釣りに出かけることが悦び、孤独は辛い、恐ろしい・・という古代人の意識の在り方と暮らしぶりと、他者と一緒にいるのは苦痛、ましてや大勢で騒ぐのは大の苦手、友人と会うのもたまにが良い・・という現代に生きる私たちの在り方、生き方との間にある大きな違い!!!
永いながい年月を経て、このような違いが生まれたのは、人間だけが持つ〈自我〉が進化したためなのです。(本書41ページに詳細が書かれています)
古代に生きた人々と、現代に生きる私たちとの間に存在するさまざまな意識の違いは、古代人の内では希薄であった〈自我〉が進化してきたためなのです。彼らの意識のあり方、生き方の違い、死に対する思い等々、多くの違いは、今私たち自身の内に存在〈自我〉とその〈自我〉の働きによって進化した文化文明によって生まれました。
古代人が持っていた〈自我〉と、現代に生きる私たちが持つ〈自我〉のあり方と働き方が違うのであれば、真の私と、正直になれない私自身の間に生まれる葛藤(そもそも古代人の内にはそのような葛藤は生まれなかったでしょう)、私が他者に感じる感情、世界に対する考えなどなど・・
何もかもが大きく変わったのであれば、私たちにとって大きな課題である〈死〉について古代人の考えと、私たちのそれも変わってきた筈です。
自然環境や生活様式が大きく変わった現代に生きる私たちが、天空に輝く太陽の光に包まれ、草原をわたる優しい風に頬をなでられ、鳥の囀りに耳を傾け、薔薇の甘い香りにうっとりし、川のせせらぎを耳にしながら天に昇っていった彼らに比し、
現代に生きる私たちは自身の肉体の衰えを覚えつつ、また自身の心が何を感じているかを認識し、自身の身に何が起きつつあるかを自覚しながら、〈私は今のプロセスを歩んでいる〉という意識を持ちながら亡くなる人が多くなっていく時代に生きているのです。
私は、地上に生きる最後の一瞬に自分の肉体、心、精神がどのようなプロセスを経て死に至ろうとしているかを知りたいと思います。私にとって、それが「可能である日」が「死ぬにもってこいの日」であるからです。その〈もってこいの日〉を逃したくはありません。
本書の3人の著者は、ご自身が「人間の肉体、心、精神」について深く学び、「それらがいつ、どのように衰えていくのか」を一瞬一瞬向き合い、それを綴ってくれています。
つまり、
ルドルフ・シュタイナーに学んだ介護に携わる方々は、日に日に衰えていく私たちに「死ぬのにもってこいの日」を知らせてくれ、それまでの一瞬一瞬を共有し、私たちが明確な〈自我〉意識を持ちながら彼岸に渡ることを見届けてくれるのです。本書はそれをシュタイナーの思想を基に、その実践を丁寧に書き下ろしてくださっている稀有な書物なのです。
大村祐子